オンライン学習コミュニティの作り方(コンセプト編)

面白い講義動画を作る その1

 

「雑談(余談)」の効用

少し学生時代を思い出してみてください。どんな授業が記憶に残っていますか?
 
授業内容そのものでしょうか? それとも別のものでしょうか?
 
実はEラーニングを設計する上で、これはとっても大切な問いです。
 
多くの人の記憶に鮮明に残っているのは、授業に関連して(もしくは脱線して)先生が話してくれた個人的なエピソードや人生論などの「雑談」、授業中に起こったハプニング、などではなかったでしょうか?
 
もちろん、授業内容自体がしびれるほど面白かった先生もいたかも知れません。
 
でもその理由は、
 
先生の授業スタイルがユニークだった」
「話を聞きながら映像が頭に浮かんだ(ストーリーテリングがうまかった)」
 
といった理由ではないでしょうか?
 
Eラーニングの黎明期(2000年初頭)には、いろいろな企業や教育機関がこぞって映像教材を作りました。当時のネット回線は遅かったのでDVDやCD-ROMが主流でしたが、そのEラーニング用の映像教材を作る上で、多くの関係者が勘違いしていた事があります。
 
それは
 
講義映像にはエッセンスのみが凝縮されているべきだ
 
という考え方です。集合で行われるリアル授業に比べて、映像は編集が自由です。そこで授業内容に直接関係ないエピソード(余談・雑談)の部分は、全部カットしてしまい、授業内容そのものだけを抽出すれば、効率な動画ができるだろうと考えたのです。
 
しかし、話はそれほど簡単ではありませんでした。
 
編集でエッセンスだけを集めた映像は、確かに効率的なのですが、肉汁が抜けてパサパサになってしまったステーキみたいに、ぜんぜん美味しくない(面白くない)のです。
 
初期のEラーニングや映像授業(一部は現在でも!)は、このあたりがあまり意識されていないために、見ていると
 
「つまらない」→「眠たくなる」→「修了率が下がる
 
という流れになってしまっているものが多数あります。
 
現在でもスライドが次から次へと画面表示され、それに合わせて、無感情なナレーションで解説が読み上げられるEラーニング教材がありますが、決して面白いものではありません。
 
もちろんコンプライアンス教育のような教材であれば、「面白さ」よりも、全社員に対して強制的に最低限の知識を身につけさせる(前章で紹介した「レベル1の学習)のが主目的であり、コストの制約や受講への強制力もあるので、それでも問題はないのですが、それがEラーニングの代名詞となり、
 
「すべてのEラーニング=つまらないもの」
 
という認識になっているのは、残念なことです。


つまらなくなる3つの理由

 
1)「余談」をカットしてしまう
筆者がこのあたりの事をはっきり意識しはじめたのは、講演映像をビジネススクールのケース教材として使用したときです。
 
ちょうど元素材となる著名経営者の講演会に撮影スタッフとして参加しており、大変感銘を受けたのですが、編集された映像を見ると、まったく面白くないのです。
 
ちょうど前述の「肉汁が出てしまったステーキ」と同じです。
 
「なぜ面白くなくなったのか?(パサパサになってしまったのか)」
 
その理由はほどなくして、分かりました。その経営者が語られていた「余談(雑談)の部分」が編集により全部カットされていたのです。
 
「余談の部分」とは、起業に至る過程でご本人が精神的に葛藤されたことや、ご家族との関係などを語られた部分です。
 
時間的制約や「ビジネス講義」という規格フォーマットに従って編集した結果、葛藤や家族の話は「余談」としてカットされてしまい、スキル的な側面を語られた部分だけが残されたため、面白さが半減したのでした。
 
ただ、一見ビジネスには関係ないように見える話でも、その人の価値観や判断基準を知る上で「余談」には重要なヒントが詰まっている場合が多いのです。
 
同じように打ち合わせや楽屋での話が爆笑するほど面白いのに、映像になった瞬間に改まってしまい面白くなくなってしまう事もよくあります。
 
それは「余談」カットをはじめ、以下に説明する理由に起因しています。
 
*もちろん1日セミナーをそのまま5−6時間の講義映像にするには無理があるので工夫が必要です(結婚式のビデオと同じで、現場にいれば短く感じますが、同じものを映像で見せられてもつらいのです。したがって編集には技術が必要です
 
2)思考過程のカットしてしまう
講師が教壇で計算したり、考えながら板書する時間をカットしないことも重要です。なぜなら、その画面を見ながら視聴者も同じように自分の頭で考えているからです。 脳科学的に言えばミラーニューロンが活性化している時間ですが、それを編集でカットし、あらかじめ用意していた回答スライドをいきなり映すと、思考トレーニングの時間がなくなってしまうのです。
 
3)編集の手間を省こうとしてしまう
撮影した動画をできるだけ編集せず、長期間かつ汎用的に使おうとするあまり、スタッフ側が撮影前に講師に

「季節の話をしないでください」
「具体的企業名やサービスなどの固有名詞を出さないでください」
「流行りの話題をしないでください」


などと余計な注文してしまうと、変なプレッシャーがかかり、自由に喋れなくなります。(そんなものは本来編集で処理すべきなのです)

 
また講師自身がオンライン教材を作ろうとする場合も、勝手に上記のような制約条件を自分に貸すこともあります。
 
このようなことが複合的に影響し、結果的につまらない映像が出来上がるのです。
 


「ここだけの話」が聞きたい(リアルとデジタルの境界線)

 
そもそも映像技術が発展し、YouTubeやTEDで、ほぼ無限の動画が見られる時代に、なぜわざわざお金を払って、決められた時間に、電車や自動車を使って講演会やセミナーに行くのでしょうか?(普通に考えたら極めて非効率です)
 
私たちは、一体そこにどんな価値を感じているのでしょうか?
 
「その時間に集中できる」
「聞きたいことをすぐに質問できる」
「講師の熱量を感じたい」
 
などいろいろ理由はあります。ただ実際には多くの人は講演者の話を聞いているだけなので(質問しないので)、その行為だけ見れば、映像を見ているのと同じです。
 
だとすれば、もっと違うバリューがあるはずなのです。
 
ひとつの可能性として考えられるのは
 
「ここだけの話」
 
を聞きたい(聞ける)からではないでしょうか?
 
リアルの講演会では、本や雑誌に出ないような裏話やこぼれ話、グレーゾーンの話が聞けるチャンスが結構あります。
 
その後の懇親会が目当てで参加する方もいらっしゃるぐらいです。そして「ここだけの話」こそが、最も重要であり、講演者の言いたい事の核心(本音)だったりする事がよくあるのです。
 
そしてその「ここだけの話」を中心に、その”秘密”を共有する仲間との間でふわっとした一体感が生まれるのです。
 
ただ、そんな「ここだけの話」は、不特定多数の人を対象にするEラーニング用の動画ではばっさりカットされてしまうか、講師の方で不特定多数の人に動画が流出してしまうリスクを回避するために自己抑制してしまうのです。
 


「肉汁を保つ」ためにすべきこと

 
認知心理学者のJ.ブルーナーは、人間が何かをよく理解するには、
 
「パラダイムモード」(論理思考)
「ナラティブモード」(ストーリーテリング/語り→感情を刺激)
 
が相互補完的な役目を果たしていることが必要だと言います。教科書的に情報を整理整頓して羅列したものが「パラダイムモード」だとすれば、先生の余談や「ここだけの話」は「ナラティブモード」なのです。
 
幸い最近の動画配信は視聴者を限定することも可能ですし、映像データをダウンロードさせずに消す事も可能です。その意味で、「ここだけの話」を、ネット上で提供できる環境はだんだん整備されてきています。
 
そのような技術的な問題が解決されれば、Eラーニングはまた新しい可能性に向かって進みます。また
 
「真面目にやらねばいかん!」
 
と思いすぎている担当者は、”余談カットの罠”からなかなか抜けられないのですが、そこを意識したオンライン講義動画を作成できる人も増えているのです。
 
また映像の構成は学習者の対象年齢に合わせて変える必要があります。
 
例えば、シニア層向けの生涯教育用の映像であれば、マシンガントークの熱血講師より、高齢の先生が出てきてゆっくりしゃべる映像の方が信頼感を持たれるといった具合です。
 
またビデオ会議などの場合、わざと講義前の講義後のザワザワしているシーンを映しておくほうが、映し出されている会場と、遠隔会場の一体感が大きくなります。
 
代ゼミや東進で、講師が教壇に出てくるまでのシーンを意図的に放送したり、最前列に座っている生徒の後頭部がわざと映るように画角を調整するのも、同じ効果を狙っています。
 
またオンライン会議でも、開始前後に「余談」タイムを作り、ざっくばらんに会話をすることがチームワーク向上や、informal learningに重要だと言われています。
 
通常、リアル会議の前後には自然に「余談」タイムが発生するのですが、実はこの時間にオフィシャルには共有されない貴重な情報を交換しているのです。
 


ライブ感を実現する

 
「E-ラーニング映像」と「リアル講義」の関係は、「CD(音源)」と「ライブコンサート」の関係に近いものがあります。
 
最近は音楽の売上はどんどん減少し、無料に近づいていますが、逆にコンサートやフェスの動員数はウナギのぼりです。なぜでしょうか?
 

それは、ひとりで音楽を部屋で聞いているだけでは味わえない興奮や感動、出会いや一体感がライブにはあるからです。
 
そして、その「体験」にこそ価値を感じて、人々は喜んでお金を払うのです。
 
「ストーリーとして経営戦略」著者であり、一橋大学大学院の楠木建教授はCDや動画は、ライブをさらに満喫するためのアイテムという位置づけになる」と言います。
 
つまりYouTubeはライブを満喫するため練習アイテムなのです。
 
この現象は言い方を変えれば、これは「モノ」から「コト(体験)」へのシフトを示しています。
 
では、これをオンライン授業に置き換えてみましょう。CDや動画に当たるのは、「映像講義」です。では、「ライブ」は当たるのは?



これこそが「オンライン上での対話」であると筆者は考えています。
 
つまりライブコンサートと同じように「学習体験(Learning Experience)」こそが提供価値の中心になるということです。
 
テクノロジーの進化は加速度的(Exponential)に進化します。
 
近い将来「ライブ」の部分は、3D/4D映像、AR、VR、ソーシャルメディア、ゲーム、IoT, ロボット, AI(人工知能)によって、徐々にデジタル空間に置き換えられるでしょう。
 
いまはリアル授業と組みあわせて行うことを前提としている「反転学習」ですが、全てがデジタルで完結する未来はすぐそこまで来ています。 


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